【佐賀】鏡から探る邪馬台国の謎…吉野ヶ里歴史公園フォーラムで3氏講演、討論 「年代論の解決が邪馬台国論争の決定的な課題」 [樽悶★]
引用元:https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1603192213/
https://www.sankei.com/images/news/201020/rgn2010200006-p1.jpg
吉野ヶ里歴史公園(佐賀県吉野ヶ里町)で「よみがえる邪馬台国」をテーマにした特別記念フォーラムがあり、佐賀女子短期大学名誉教授の高島忠平氏、大分県立歴史博物館主任研究員の越智淳平氏、兵庫県立考古博物館学芸員の種定淳介氏が講演。邪馬台国の女王卑弥呼が魏から贈られたという三角縁神獣鏡(さんかくぶちしんじゅうきょう)配布の意味などをめぐって論議を交わした。(九州総局 永尾和夫)
◆海指向した人々
越智氏は「古墳のはじまり~宇佐地域からみた古墳と首長居館」と題して講演。北部九州と瀬戸内地域に挟まれた大分県宇佐地域、福岡県豊前地域の古墳について説明した。
この中で赤塚古墳(大分県宇佐市)から出土した三角縁神獣鏡5枚は、石塚山古墳(福岡県苅田町)のほか、京都や奈良など畿内の古墳から出土した鏡と同じ鋳型で作製されていることを指摘。「当時のヤマト政権と九州の関係を知る上で重要」と述べた。また、小部遺跡(宇佐市)のように、海を指向した人々が古墳時代の始まりとともに出現。こうした墳墓や集落の動態を明らかにすることが、邪馬台国時代の解明につながると語った。
◆漢鏡7期の変遷
また、種定氏は「古鏡残照~漢鏡の図像と銘文を読む」と題して、古代鏡の研究成果を披露した。漢鏡は「文様や銘文が多様で時間の変化に敏感」とされ、前漢から後漢まで、図像と銘文が7期にわたり変遷したと述べた。
吉野ヶ里遺跡から出土した異体字銘帯鏡は、この中の3期で紀元前1世紀前半の製作と指摘した。銘文は「久しく相見(まみ)えず、長く相忘る毋(なか)らん」と解読。この銘文はなぜか、鏡が製作された時代より百年古い表現とした。内容は主君を慕う臣下の心情を歌ったものとも、男女の愛情表現ともとれると語った。鏡のデザインはその後、儒教や神仙思想の影響を受けて変容、世界観を細かく表現するものになっていったと解説した。
◆年代論解決が課題
最後に高島氏が「考古学からみたこれまでの邪馬台国論争~青銅器と古墳をめぐって」と題して、畿内説と九州説に分かれる邪馬台国論争の歴史的経過について講演した。
畿内説では、三角縁神獣鏡など3世紀の銅鏡が多数出土し、纏向(まきむく)遺跡(奈良県桜井市)一帯の前方後円墳が列島では最古とされることなどが根拠となってきたと紹介した。
これに対して九州説は、吉野ヶ里遺跡で国内最大級の環濠集落などが発見され、魏志倭人伝に描かれたクニと符合する遺構が現れたことが、有力な拠りどころとなったと指摘した。ただ、考古学者の間で、50年から100年の年代観の違いがあるとして「年代論の解決が邪馬台国論争の決定的な課題」と提唱した。
さらに、卑弥呼が魏の皇帝からもらったといわれながら、中国では一枚も出土していない三角縁神獣鏡について見解を述べた。この鏡は中国南部にあった呉の神獣鏡の系統なので、畿内は呉の地域との結びつきが強かったと考えるのが自然とした。これに対し後漢の系統の鏡が多く出土している北部九州こそ、中国北部の魏とのつながりが深かったと論じた。
この後、高島氏の司会で3氏が討論した。
この中では三角縁神獣鏡がやり取りされた背景について論議。「鏡は卑弥呼が下位の首長に下賜したのではなく、下位の首長が上位の首長に鏡を献上することによって、祭祀を委ねるということを表す儀礼用のもの。このため、首長間で大量の鏡が流通した」という見解が示された。
今後、鏡配布の背景について、さらに細かい研究が必要という点で一致した。
10/20(火) 7:55配信
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20201019-00000003-san-l41
そもそも魏志倭人伝の半分がデタラメ
特に方位も距離も都市名も
なぜ?魏志倭人伝の日本描写のうちの方位と距離と都市名がこれほどデタラメだったのか?
答え
当時は地図は軍事上で国家の最高機密だったから
それを日本側は知っていたのであんなデタラメな情報を魏の国に流した
実際には日本には文字も暦もあり軍馬さえ存在していたが
それを秘匿した
なぜ?卑弥呼の痕跡がこれほどまでに日本にないのか?
答え
晩年に卑弥呼は大和を裏切り、魏に使者を出して狗奴国との戦況を伝えた
そのために魏は張政と言う使者を日本に遣わした
それで日本国内は混乱した
卑弥呼はすぐに殺されて反抗して戦死した100人と共に埋葬された
それで卑弥呼は神功皇后とは異なり死後に崇められることはなかった
纏向は馬具や紅花から見て5世紀以後の遺跡だな。
よ う こ そ 邪 馬 台 国 へ
■邪馬台国の位置
翰苑(第30巻のみ大宰府天満宮に残る:唐の張楚金の編纂)
が引用している「廣志」に、邪馬台国の場所が記されている。
https://i.imgur.com/aoXGq7Z.png
邪は伊都に届き、傍らは斯馬國に連なる。
廣志曰く、倭国東南陸行五百里、到る伊都国。
又南、至る邪馬臺国。
※伊都国:福岡県糸島市,福岡市西区あたりと言われている
■アクセス
伊都国の南、徒歩すぐ
「翰苑」は過去の色んな文献からかいつまんで書き写しすぎてて
内容がよくわからなくなってるけどね。
転記してる文面にしても
邪馬台国が伊都国を統治しているって意味でしかなくて
廣志曰の注釈部分にも邪馬台国の位置は泣いてない。
あんまり文献資料としては役に立たないよ。
記紀とも倭人伝とも整合のとれない「畿内説」より信憑性は高い
何のバイアスも必要無い時代の記録なんだから
畿内説は畿内ありきでこじつける印象操作が度を過ぎている
「翰苑」の原文読んだことあります?
本文が数文字程度書かれていて
それぞれに〇〇云で始まる注釈が数行って形態になってます。
しかも出典元とも内容が違うケースもあって、混乱の上に混乱が重なります。
そして肝心の伊都国と邪馬台国の位置関係については書いてません。
■卑弥呼時代から存在するクスノキ(樹齢1800年以上)
樹齢3000年
・柞原八幡の大クス:大分県大分市八幡
・川古のクス:佐賀県武雄市若木町川古 日子神社
樹齢2000年
・衣掛の森(クスノキ):福岡県粕屋郡宇美町宇美八幡宮
・武雄のクス:佐賀県武雄市花島
・老松神社のクス:山口県防府市お茶屋町 老松神社
・阿豆佐和気神社のクス:静岡県熱海市 来宮神社
樹齢1800年あたり
・未確認
■わかること
・畿内は倭国として認識されていなかった
・近畿は女王国の東の海を渡った先にあった「倭種の国」
邪馬台国論争で奈良の拠り所としては、纏向かと思うけど、
卑弥呼が即位したのは190年。
記紀信者とは、話が通じなくなる時系列なんだけど
銅鐸時代ではあるけれど、非銅鐸で卑弥呼が居た九州は当然として
日本海や、瀬戸内海諸国、越、東海、関東方面とは
政治的、軍事的統一なんてものは、まだ無くないかね?
たぶん、四道将軍ってのは、この辺で活躍してもらわないと
稲荷山古墳の471年ヲワケの8代始祖オオヒコの宿祢も困るけど・・・
記紀が嘘書くから、みんな迷惑してんだよw
それでも、卑弥呼以降で九州は大和朝廷の前身に参加し始めた。
これは魏晋による、239年公孫氏、246年韓王朝の滅亡を見たからだよね。
そもそも遼東の公孫氏は紅巾の乱で出世、200年辺りに半島進出、
238年、呉と結託した疑惑で楽浪帯方に奇襲を受けた。
魏は、この時、倭人国との同盟は東夷の安定に絶対欲しかった。
九州女王の小国なのに・・・
245年の韓制圧戦で、将軍位の奴国王、難升米に黄幢で魏の正規軍に任命
檄によって、韓制圧戦への参戦を求めた。
宗教王、卑弥呼の軍事的無能は、240年の梯儁も見抜いていたんじゃないかね。
日本は、この檄には応じず、九州と連合して、対魏で防衛体制に入った。
この247年の張政の報告で、魏と邪馬台国の交流は終わる。
これが歴史書である、三国志、倭人伝なんだけど・・・
銅鐸の奈良の大倭王が日本の統一王じゃ、ホントの歴史は語れんよwww
神功皇后は190年ごろには哀仲天皇と結婚して表舞台に立っているぞ
そして哀仲天皇が死んだ200年から270年ころまで政権を取っている
時系列も会うんだが、なぜかGHQ支持者は日本書紀を読まないのな
つうか神功皇后の三韓征伐が200年10月に三韓征伐を実施している
まあ神功皇后を語るのもいいのだが少しはちゃんとした時系列を把握してから語れよ
GHQじゃあるまいしいつも参考にする日時がいい加減すぎんだよ
日本書記以上にな
記紀の神功皇后の時系列が合わないのは
朝鮮半島の『三国史記』新羅本紀
173年 – 倭の女王卑彌乎が新羅に使者を派遣した。
これだけなんだがな
大量に作るから
コレクションするから
訳分からなくなるw
日本人恥だろw
古い岩にイタズラ書きしちゃってw
唐から平和的にやって来たハーフの人も、ちゃんとちんちんついてるw
話盛ってるだけだと思うけどw
ちんちん切るの。
古代にそんな手術出来るのかな?
「翰苑」って対句の手習い本なんですよ?
対句の勉強のための本で、色々な過去の文献から
対句の例としての一行が書いてあって
そこに注釈として出典元ではこんなことが書いてありますというのを紹介してる。
出典元には魏略なんかの散逸してしまった文献の名前もでてくるけど
出典元の残っている文献と見比べてもかなり内容がおかしくなってるので
あくまでも手習い本に筆者が書いた独自解釈ととらえないといけない。
※後漢書曰くに、後漢書には書いてない壱与について書いてたりする。
畿内ありきの否定論は見苦しいですよ
最終的に行った邪馬台国が「至」なら、実際行動の行程は「至」で、「到」は行程の途中にあるのではない国の方位位置説明という論理。
人を載せた、船47隻の大船団が比知島に現れ、対馬国司は大
宰府に急変を伝えている。やがて筑紫に着き駐留して軍兵と
思われる2000人での駐留状態になり深刻な問題となった
[8]。この船団の中には道久・筑紫薩夜麻ら白村江の戦いで捕
虜になったと思われる倭人も含まれており[9]、直木孝次郎の
説によると、この使節派遣の性格は、捕虜の交換とともに唐
への軍事的な支援を要請するものだったと想定され、あるい
は戦乱の続く旧・百済領内の避難民を倭国へ護送するものだ
ったとも言われている[10]。
唐の皇帝の国書の書函と信物(くにつもの)進上した[13]。し
かし交渉はもつれたのか、その後も駐留し続けた[14]。 交渉
の末に唐使らに大量の甲胄弓矢と絁(ふときぬ)1,673匹、布
2,852端、綿666斤の贈物をすることで5月30日帰国させた
(『日本書紀』巻第二十八、天武天皇上 元年5月12日条、元
年5月30日条)[14] 。
その年表はGHQが適当に作ったものでしかないのだが
>>899
いやいや勝手に推定すんなよ
しかもそれはGHQ指導の下に適当に制作された年数だぞ
>>892
まあ系図の欠損があるという事も忘れないでほしいね
つまり欠損している分寿命が加算されているという事
古ければ古いほどそれはある
そもそも宮廷内にあった記紀の元の書物の歴史書の数々は火事で焼けているからな
半分燃えたものを集めて参考にしているから
あとは宮廷以外の豪族所有の本をも参考にしている
書くなら邪馬豆国(ヤマト)じゃ
漢字の読みも分からん学者が言い出したヤマタイとか今だに使ってて恥ずかしくないの
このスレで主張されている説の多くは戦前の本にも書いてあるよ。
邪馬台国に関する新発見と呼べるようなものが大してないからねぇ
777年から1894年までちんちん切られ続けるって
あり得る?
盛り過ぎじゃね?w
モンゴル帝国あたりで広まったんじゃ。
明治も。毎回毎回w
邪馬台国スレは
600年 倭王 阿毎 多利思比狐(アマテラスヒコ)?東に一支国、竹斯国、泰王国?
倭王 阿毎 多利思比狐
それは聖徳太子の時代の事で卑弥呼とは関係ない
それは知っているけど
天皇の名、妹子の名もない。
旧唐書で空海の名がある。
天皇の名が出てくるのは、新唐書でやっと出てくる。開化天皇の曾孫が、女神神功天皇となっている。
うーんここのバカにはわからないだろうけど
ちゃんと聖徳太子の名前も推古天皇の名前も出てくるよ
どこにあるの?
ここにいる他の賢いとか思っている奴に聞いてくれ
そのくらい答えられるだろうよ
バカなら答えられんと思うけど
なんで君からの指摘がないの?
バカだから指摘できないの?
🇯🇵日本相手に負けたと思ってないぞ。
邪馬台国九州説論者が狂いだすのは、大体九州王朝説に引っかかるから。
邪馬台国九州説・・・魏志倭人伝に書かれた邪馬台国が九州のどこかにあるとする説
九州王朝説・・・邪馬台国をきっかけに九州福岡に王朝があり、それがのちに東遷したとする説
この二者を同一視してもらっては困る。
東遷はないよ。
戦争に負けた事、賠償金取られた事ちゃんと記録に残すなんて。
本当の数字なのかな?↓
大量の甲胄弓矢と絁(ふときぬ)1,673匹、布2,852端、綿666斤の贈物をすること
じゃあ何で九州弥生王墓から出るの?
神武が三種の神器持ってるって威張るの?
ニギハヤヒは十種の神宝だけど
それはね当時の豪族も三種の神器を持っていたから
饒速日も持っていたし
地方の豪族特に九州の豪族には神武天皇の子孫がいたから
三種の神器を出して逆に恭順の意を示していた
あとは資料の寄せ集めと伝聞だから
ハイ鏡ってのとたいしてかわらんからな
辺境の弱小勢力が周辺に圧迫されて助けを求めて来たのを
辺境の勢力がチョウコウしてきたわ
俺っち漢代とかわらずスゲーぜと日記には書いておこうってだけだからなあ
派兵はしてくれというけど大勢力だと食わしていけないし
侵略人狩りもされたら嫌だ ちょっとの兵だけで来てくれっていうむしのいい話だし
いつ広まったの?この🇨🇳アホ風習w
遣隋使遣唐使はやらないだろうけど。
命がけで大陸まで行くんだから。
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